◆古書店めぐりを趣味にしていると、ちょっとした偶然に遭うことがあります。

◆今となっては昔の話ですが、私は平成2年に司法修習生になり、当時、湯島にあった司法研修所に通いはじめました。10クラスあるなかの4組、クラス担任は検察官の吉村徳則先生でした。私は、修習のはじめから、検事になるつもりはなかったのですが、先生の講義は、検察という仕事の広さ深さを説いて興味深いものでした。先生は、風貌そのままに剛毅で、しかし、授業の初日には、クラス全員の氏名をすでに記憶されているなど、実は、お優しい人柄でした。

 招かれるまま、同級生と、神奈川にあるご自宅にも伺いましたが、そのときは、エプロン姿で、マンション階上のベランダに出て、声を出してご自宅の場所を路上の我々に示して下さり、たしか、先生の手料理をごちそうになった記憶です。

◆先生は、その後、福岡高検、名古屋高検の検事長まで歴任され、退官後は、弁護士をなさっておられましたが、平成24年春、残念ながら、お亡くなりになり、私は、新聞の訃報欄で、先生のご逝去を知ったのでした。

◆いつのまにか20年以上も前になっていた先生とのご縁を懐かしく思い出しながらも、足は、いつものように、自宅近辺の古書店に向かいます。店の棚に収蔵される前の仕入本の山まで漁っていると、海音寺潮五郎「史談と史論(上)(下)」が目に入りました。海音寺潮五郎は、司馬遼太郎と比べても、書きぶりが直接的で好ましく、古書にもつい手が伸びてしまうのですが、上下そろって状態もよいその文庫本の中扉には、蔵書印が押されておりました。印が入ると買わないのが趣味のルールで、「残念。やめた」と思い、しかし、いったい誰の蔵書なんだと印影を読み解けば、「検事吉村徳則」とあり、先生が在官中に購入された本とわかりました。この印影は、場合によっては、検事の職印であったかもしれません。

  どういう偶然の導きかわかりませんが、先生の所蔵本がなじみの店に顕れた、しかも、蔵書印によってそれとわかる形で、ということであれば、購入するほかありません。先生の剛毅なお人柄と海音寺潮五郎は、どこか響きあっており、先生らしいと思いました。

  以上、吉村先生のご冥福を祈りつつ、古書奇談の「その1」といたします。